Apple Silicon M1 雑感

いまさらながら Apple Silicon M1 についての取り留めのない感想。商用メディアでは絶賛しか見ないので,いきおい批判的な内容が多くなるかもしれない。

Apple Silicon の長所

M1 についての情報を追ってきた方にとっては周知のことであろうが,Apple Silicon のメリットを概観する。
Apple Silicon M1 は,ARM アーキテクチャの Apple 独自プロセッサである。iPad などでの知見を活かして新規に設計されたもので,非常に重厚な作りによって PC 用としても高いパフォーマンスを実現した上,ヘテロジニアス構成により一般的な x64 プロセッサでは実現できない低消費電力を実現している。
もっとも,複雑な構造から,製造コストは高いはずである。また,実際の使用環境でのパフォーマンスはまだはっきりしない(一部のベンチマークは OS やアーキテクチャを超えて比較可能な値を出すことを謳っているが,必ずしも成功していない)。ヘテロジニアスマルチコアについても,既に Lakefield が登場するなど,x64 でも普及の兆しがある。

互換性維持という退屈な仕事

自社製プロセッサに切り替えることで,Apple は互換性の維持という重要だが地味な仕事を抱え込むことになった。基本的な ISA は同じでも,拡張命令や構成の違いで意図された通りのパフォーマンスにならなかったり,正常に動作しなかったりすることがある。
これまではプロセッサの互換性は Intel の仕事であり,Apple は WWDC のプレゼンテーションで発表できるような目立つ機能だけに注力できた。
ARM(というか RISC 思想)の身上は最適化であり,これまでにマス層向けの PC のプロセッサとしての応用がなかったことも考えると,ARM のメリットを活かしつつ x64 を代替できるほどの互換性維持が可能なのかは未知数である。
もちろん,これまでの方針のとおり,互換性維持はターゲットにしないということも考えられる。Apple 自身はハードウェアとソフトウェアをまとめて売っていることから,ユーザがいよいよ愛想を尽かさない限りにおいて,互換性はむしろ邪魔である。ところが,サードパーティにとっては事情が全く異なる。

サードパーティの負担によるソースレベル互換 …… どこまでついていけるのか

Apple は,Microsoft の ARM 版 Windows とは異なり,当初から “Universal 2” として ARM 用バイナリもバンドルさせることで普及を目指す構えである。エミュレーション実行のオーバーヘッドは大きく,それ以上に市場の反応も悪いことが証明されていることを考えれば,当然であるといえる。
これは,言ってみれば,サードパーティの負担のもとソースレベル互換性を実現するものである。
問題は,ことアーキテクチャに断絶があるような場合には,コンパイラ任せで問題なく動くようなものではないことである。コンパイルが通っても起動するなり segfault したり,もっと悪いと特定の操作をした時にだけ落ちたりする。
もちろん,コンパイラが非常によくできていれば,そのようなことは少ないかもしれない。しかしコンパイラの開発には大きな技術的困難を伴うし,付け足すならば,こうした分野は Apple が伝統的に苦手とする分野だ。
M1 版の Google Chrome は一旦公開されたあとに大きな問題が発覚して一時取り下げられたが,あれほど広く使われているプロダクトでもこのようなトラブルがあるというのは,少なくとも幸先の良いスタートではないであろう。
GNU/Linux における自由ソフトウェアのソースレベル互換性は各ディストリビューションのメンテナやその他の協力者の手により補完されているが,ここではそのような広がりはない。サードパーティの開発者自身が互換性の問題を背負い込む必要がある。
個人開発者,特に非営利の開発者にとっては,致命的なことかもしれない。また,無料アップデートの提供で付加価値を訴求したり,逆にサブスクリプション移行で囲い込みを試みている商用ベンダにとっても,手痛い一撃となるだろう。

囲い込み強化

M1 の成功のために重要なのが囲い込みの強化だ。これが Apple にさらなる利益をもたらすのはもちろん,サードパーティへの影響力を拡大し,出資などのリスクなしに中央集権的な仕組みを構築できる。
Mac の囲い込みはかねてから強化され続けている。10.14.5 から Notarization(公証)スキームが採用され,あらかじめ認められた署名があるバイナリしか実行できなくなった。さらに,署名の有効性を確認するため,実行時には Apple のサーバへ署名情報が送信される(これはプライバシ上の懸念も引き起こしている)。
iOS デバイスの App Store がこの背景となる成功体験であり,Mac をスマートフォン同様に Apple が完全にコントロール可能にする,言い換えれば独立したパーソナルコンピュータではなく Apple が提供するソリューションの専用端末に作り変える試みと言える。
OS 自体についても,そもそも ARM ベースのプラットフォームでは規格や一般的な慣行が確立していない部分が多く,たとえば特定の OS の導入を事実上排除するようなことをしても,ただちに訴訟での敗訴のような結果には繋がりにくいと考えられる。
Apple Silicon 導入に伴う変化で,ユーザ体験や安定性,セキュリティの名のもとに,ユーザの権利がさらに制限されることになるのは想像に難くない。
ところが,有無を言わさぬ覇権を確立している iPhone / iPad とは異なり,Mac のシェアは限られている。囲い込みに成功したはずの iOS App Store においても,サードパーティの「反逆」が相次いでいる。
そして,言うまでもなく,ここで犠牲になっているのはユーザの利便性である。Mac ユーザはロイヤリティの高さで知られているが,バタフライキーボード問題から状況が変わってきた。対応しきれないサードパーティの撤退や囲い込みの強化による利便性の低下が実害を及ぼすまでになれば,ユーザの反応にも影響を及ぼす可能性がある。

不確実性

Apple にとっても自社プロセッサはリスクがある。かつて AMD が苦しんだのは,シェアが少ないためファブのコストが高く,ファブのコストが高いためシェア拡大のための戦略的な手を打てない……という鶏・卵問題であった。Apple はファブレスなので投資という意味でのリスクは少ないが,出る個数という点では更に少なくなるだろう。Apple Silicon の普及のため,現行の M1 搭載機種は利幅が小さく設定してあると考えられている。Apple は,なるべく早期に現在の価格設定に見合うまでに Apple Silicon のコストを下げなければならない。しかし,何かのきっかけで Apple Silicon 採用 Mac がユーザから忌避されたり,本業の iPhone 事業が不振になることも大いにありえる。今の追い風が止まった瞬間,一気に計画が頓挫してしまう可能性もある。さらに,ARM アーキテクチャ自体もリスク含みである。ARM Holdings は IP ライセンス特化のため比較的コンパクトだが,反面頻繁な売却の対象になっている。米国企業である NVIDIA の手中に収まったためひとまず今回の米中貿易摩擦の間は大丈夫であろうが,今後 Apple の競合や他国企業に売却される可能性もある。
さらに付け加えるなら,Apple は当面 x64 プロセッサの採用をやめることができないはずである。あくまで M1 は低消費電力・低クロック向けの設計に基づくプロセッサであって,そのまま絶対的な性能を重視したレンジにまでスケールできるものではないからだ。TDP 35W クラス以上の既存プロセッサと競合するには,iPhone / iPad とは別物の新しい設計が必要になる。言い換えれば,それまでの間,Apple Silicon Mac は Intel Mac というより実績のあるライバルの挑戦を受け続けることになる。Apple はプレスリリースで「約2年」で「移行が完了」するとしているが,具体的な動きがどの程度進んでいるのかは不明で,本当にそれほどスムーズに進むのかはやや疑問である。

おわりに

言っては何だが,私自身は Mac ユーザでないので,Apple Silicon にはあまり関心がない。
しかし,一時期グレア液晶が市場を席巻し,薄型化ブームがいまも尾を引いているように,ARM プロセッサの採用がユーザにとっての価値を顧みない単なるブームとして波及してしまう可能性を懸念せざるをえない。グレア液晶や薄型筐体が売り場で見ると魅力的であるように,ARM プロセッサもカタログスペックは魅力的である。しかし実際には,まだ多くの困難が残っており,x64 を代替するには時期尚早である。
ARM で Linux を使ってきた経験からすると,少なくともエンドユーザから見て,ARM ベースの PC は茨の道である。情報がないし,確立した規格や慣行も乏しい。カーネルのアップグレードは冒険になる。そして,その痛みに見合うほどのメリットない。まともなプロセッサは x64 と比べて安くはないし,省電力性を重視したアーキテクチャのため,体感ではベンチマークほどの性能は出ない。そしてなにより,一つの企業への依存やプロプライエタリ規格・ファームウェアという問題は何一つ解決しない。
もちろん,ARM ベースの PC に市場が注目することによって,現在欠けているものがコモンズとして整備されていく可能性もないわけではない。しかし実際には,プロプライエタリで非公開の何かで埋められる可能性のほうが高いだろう。スマートフォンが辿った経過を見ても明らかである。そうなれば,スマートフォンに加え PC からもユーザの自由が奪われることになりかねない。
せっかくの PC 回帰の流れが,PC のスマートフォン化という結末に終わらないことを祈るばかりである。

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