……ということを熱量高めに語った文章をブログにアップしたのだが,アクセスが全然ない。かなしい。
しかし,実際のところ,これはかなりの作品である。埋もれてしまうことがないよう語り継いでいく必要がある。Zeitgeist の表現という意味では,「FLCL」と肩を並べる快/怪作かもしれない。90年代の総括である「FLCL」とは落下であり,躁と鬱であるが,10年代の総括である「少女終末旅行」は静止であり,ニルヴァーナである。
一般的な間隔からすると陰鬱なテーマではあるが,それゆえに norm を逸脱した者にとっては救済にもなりうる。健全な市民社会からすると狂人のたわごとに過ぎないニーチェの永劫回帰が,多くの人に生きる(無)意味を与えたように。坂口安吾の露悪的な『堕落論』が,人々の精神を武装解除したように。
世界の終末はまだまだ来ないだろうが,実存にとっての終末はいたるところで訪れている。10年代は価値の崩壊,アノミーとそれに対する代替(alt-)希求の時代であったが,この流れは今年に入ってにわかに加速しつつある。しかし,古い世界の廃墟に何かが生まれる兆しもない。せいぜい,過去に打倒された何かの亡霊が立ち上がっては消えているだけである。
夢も希望もヘッタクレもない時代に生きる若い世代は,正しく絶望する方法を知らねばならない。今なお彷徨う希望を着陸させるべき滑走路がもはや失われたのであれば,虚無という荒野にハードランディングさせるほかない。ニーチェが換骨奪胎されて皮相の人生訓に矮小化されるこのあまりに惨めな時代にあっては,絶望の見取り図を平易に示してくれる表現には,単なる完結した作品としての枠を超えた意義がある。